偽りの影
研究室の窓から見える都会の夕景は、今日も無表情なコンクリートの塊だった。一条の光が西の空で燃え尽きようとしている。榊原はカップに残った冷たいコーヒーを飲み干し、疲労からくる目の奥の痛みを何度か瞬きで散らした。
数日前から、妙な感覚に襲われていた。見慣れたはずの街角で、自分と全く同じ顔をした男とすれ違うのだ。最初は、同僚の誰かがからかっているのかと思った。だが、その男は榊原が知る誰でもなく、彼が振り返ると、いつも煙のように消えていた。
昨日の昼休み、いつものカフェでサンドイッチを頬張っていると、窓の外をその男が通り過ぎた。男は榊原と同じ色のコートを羽織り、同じように少し猫背気味だった。その瞬間、榊原は心臓が凍りつくような感覚に囚われた。もう一人の自分、まるで鏡像が現実世界に現れたかのようだ。
彼は今、極秘プロジェクトの最終段階で、その成果は国家レベルの機密に触れるものだった。この数週間、常に何者かの視線を感じていた。パラノイアか、それとも現実か。境界線が曖昧になり始めていた。
今日、彼は重要なプレゼンテーションのために、郊外の厳重な施設に向かっていた。本社からの送迎車に乗り込む直前、ビルの陰から、あの男がゆっくりと現れた。男は榊原の目を見て、わずかに口角を上げたように見えた。その微かな仕草は、どこか見下すような、あるいは全てを知っているかのような嘲笑にも似ていた。
榊原は、これまで感じたことのない種類の恐怖に襲われた。あれは、単なる幻覚ではない。あの男の存在は、榊原の周辺で蠢く、もっと深い闇の一部なのだと直感した。
車に乗り込み、シートに深く沈み込む。窓の外を見ると、男はまだビルの陰に立っていた。その手元が、わずかに揺れたように見えた。そして、その瞬間、車の屋根に、弾けるような硬い音が響いた。同時に、運転手が「伏せろ!」と叫んだ。
榊原は反射的に身をかがめた。車は急加速し、激しい横滑りをしながら、路地裏へと逃げ込んだ。ガラスが砕ける音、金属が軋む音が、一瞬にして彼の世界を暴力的に塗り替えた。
路地裏の安全な場所に車が止まると、運転手は息を切らしながら振り返った。「ターゲットは榊原さん、あなただったようです。しかし、なぜか、そちらのビルから、別の人物が……」
榊原は何も言えなかった。ただ、脳裏に焼き付いたもう一人の自分の顔が、どこか遠くで、彼と同じように恐怖に怯えているような気がした。あるいは、満足げに微笑んでいるのかもしれない。彼の命は助かった。だが、その代わりに、誰かの命が、彼の「影」の代償として奪われたのかもしれない。
街の喧騒は遠ざかり、夕闇が全てを覆い尽くそうとしていた。榊原は、自分がこれから、その影と共に生きていかなければならないことを悟った。
コメント
コメントを投稿