遠い震え、届かぬ宛先

健司は、毎朝玄関の鍵を回すたびに奇妙な既視感を覚えた。
まるで、本来自分が開けるべきではない扉を開けているかのような感覚。自分の人生が、どこか深い場所で誤配された運命なのではないか、と彼は漠然と感じていた。穏やかで波風立たない日々は、しかし彼の心にはいつも、どこか満たされない空虚さを残していた。

彼の職業は古文書の整理。地域の歴史が詰まった古い書物や写真、遺品に囲まれ、他人の確かな過去と向き合う日々は、彼自身の過去の曖昧さを際立たせるだけだった。埃を被った書架の間に漂うインクと紙の匂いは、時に彼の心を落ち着かせ、時に彼自身の「失われた記憶」への焦燥を募らせた。

ある日の午後、長年手つかずだった廃業した郷土史研究会の寄贈品の中から、古びた小さな木箱を見つけた。中には、紙の束に紛れて、一枚の褪せた葉書が入っていた。消印は薄れ、宛名も差出人も判読不能。だが、隅に記された七桁の数字だけは鮮明に残っていた。郵便番号。それは、彼が今住む場所のものでも、かつて住んでいた記憶のある場所のものでもなかった。
その数字を見るたび、健司の脳裏に漠然とした映像が蘇るようになった。それは単なる夢というにはあまりに鮮烈で、五感を刺激するような体験だった。地面が激しく揺れ、耳鳴りのような轟音が響き渡り、視界を覆うような白い閃光が走る。すべてが液体のように歪み、時間までもが引き伸ばされるような奇妙な感覚。まさしく「時間の歪み」だった。

数日後、偶然つけたテレビのニュースチャンネルが、ちょうど十年前に起きた「鳥取地震」の特集を組んでいた。画面に映し出される当時の被災地の映像、建物の倒壊、混乱する人々の声、そして人々の証言。それは、健司が夢で見ていた光景と寸分たがわぬものだった。彼の全身に、冷たい震えが走った。
彼はその時期の記憶が一切ないのだ。いや、正確には、ごっそりと抜け落ちている。子供の頃の記憶は誰しも曖昧なものだが、彼のそれは、まるで映画の一場面だけが切り取られたかのように、ある一点から先が完全に空白だった。あの震災が彼の「失われた記憶」と深く繋がっているのではないか? その疑念は、彼の心を深く支配した。

古い郵便番号は、彼にとって唯一の手がかりのように思えた。それは、彼自身の本当の始まりを示す番号なのか、それとも、本来彼が辿るべきだった誰かの人生の道標なのか。もしそうなら、彼は今、本当の自分とは違う、誰かの借り物の人生を生きているのかもしれない。彼の「誤配された運命」は、あの震災の日に始まったのかもしれない、という恐ろしい考えが頭をよぎった。
健司は葉書を握りしめ、窓の外に広がる曇り空を見上げた。届かぬ宛先を探すように。彼の運命は、一体どこへ「誤配」されたのだろう。そして、本当の自分は、時間の底で、今もあの震えの中にいるのだろうか。問いは宙に舞い、答えはどこにも見つからなかった。彼に残されたのは、胸の奥底で響き続ける、遠い震えの記憶と、果てしない問いだけだった。

コメント

このブログの人気の投稿

8月14日の魔法

家族のきずな